2015年
1月
29日
木
J'ai acheté un livre.
ジェ アシュテ アン リーヴル
私は1冊の本を買いました。
しばらく迷っていたんですけど。
まだまだ自信がないので。
アルベール・カミュ(1913~1960)の「異邦人」の対訳本です。
200ページ余り。
でも、フランス語と日本語が半々ですから、正味100ページちょっとですね。
19歳のときに、もちろん翻訳で読みました。
ええ、ちょっと前です。
当時はフランス文学にちょっとはまっていたので、漠然といつか原語で読めたらいいだろうなと思っていました。
音大のピアノ科は英語かドイツ語だったので、フランス語は学ぶ機会がなく年月が流れました。
フランス語の基本の文法が少しわかってきたので、何か読んでみたいと思って、もっと短いもの、例えば「星の王子様」だとか、モーパッサンの短編とかあるんですけど、やっぱり思い入れのあるもののほうがモチベーションが上がるかなと。
3ページ読んだところです(笑)
後半が難しいそうなので、途中から右のページ(日本語のほう)だけになってしまいそうですが、力まずにトライしてみようと思います。
ピアノを学ぶ人にとって、語学は有用だと思っています。
留学や外国人のピアニストにレッスンを受けるためというのもあるでしょうが、それだけでなく、言葉と音楽は密接に結びついています。
ドイツ音楽ならドイツ語の、フランス音楽ならフランス語のイントネーションやアクセントが、必ず関係していると思います。
ピアニストでも、アルゲリッヒは5カ国語に堪能だといわれていますね。
シフも、「自分は大変な読書家でさまざまな国の本を読むが、原語で読むようにしている」とインタビューで語っていました。
一流のピアニストはピアノ以外でも高い能力を持っているんですね。
私なんかとても足もとにも及びませんが、楽しみながらゆっくり味わって読んでいきたいと思います。
2015年
1月
22日
木
きのうレッスンにみえた小学生のお嬢さん。
理解力もあるし、毎日欠かさず練習する、楽しみなお嬢さんです。
ところがきのうはちょっと様子が違いました。
「両手で弾いてきていいよ」と言ってあったのに、片手でしか弾かないし、この前のレッスンで説明してあったことをちょっと忘れていたり。
「この曲、練習するの忘れてたの?」と聞くと、にこにこして「ちょっとやった」と言います。次の曲も同じ。「練習した?」「ちょっとやった」
何となく腑に落ちないというか、らしくないというか。
お母さんがお迎えに来て、謎が解けました。
「今週はインフルエンザにかかっちゃって、土日挟んで5日間休んでいました」とのこと。
「ああ、それで練習不足だったのね」と私。
彼女は正直に答えていたんですよね。「ちょっとやった」って。
でも、ほかの子だと、小学生でも「先生、インフルエンザで休んでたから練習できなかった」と言うほうが普通な気がします。
そんなに内気で何も言えないという子じゃないですし。
推測するに、あまり練習してないことを、インフルエンザだったことで言いわけしようという発想自体なかったのかなと。
言いわけするまいというほどでもなく、彼女の中で言いわけしたい気持ちもなかったのかな。それが自然体というか。
もともとしっかりしたお嬢さんなんですけど、今回のことでまたちょっと頼もしい気がしてきました。
2015年
1月
16日
金
先日、スタニスラフ・ネイガウスについて書いて、その子供であるスタニスラフ・ブーニン(Stanislav
Bunin)のことにも触れたのですが、書いているうちに、ゲンリヒ・ネイガウス、スタニスラフ・ネイガウス、そしてブーニンと三代続いたピアニストの家系で、彼らが共産主義体制の旧ソ連で、どんな思いで音楽家として生き、ブーニンの亡命につながったのか、改めて知りたくなったので、この本を読んでみました。
初版が平成2年となっていますから、ブーニンファンの人たちからすれば、「いまごろ?」という感じかもしれませんが、私自身はショパン・コンクールのときの演奏に確かに目を瞠ったのですが、その後のキレキレだけどちょっとユニークな演奏は少し私の好みと違うので、こういう著書があることも知りませんでした。
というわけで、密林さんで探したら中古本でありました。
読んでよかったと思います。
面白いなと思うのは、彼の音楽同様、文体もちょっとユニークで、人によっては読みづらく感じるかもしれません。
でも、ソ連にいたころの政治体制や彼を取り巻く社会に対する気持ちが非常に率直に書かれていて、そういう意味でも非常に興味深いものでした。
コンクール後、プロパガンダに利用されそうになったり、国外への演奏旅行に出るのも非常に不自由で妨げようとする人たちとの闘いがあったり、コンクールに勝ったら勝ったで苛酷だったんですね。
やっと海外に出るたびに、お母さんからは「帰ってこないほうがいい」と言われていたけど、お母さんをソ連に置いて亡命はできなかったんですね。
やっとお母さんと一緒の演奏旅行が許されたとき、西独で監視の目をかいくぐって支援者の車に飛び乗って逃走するところは、まるで映画のワンシーンのようで緊迫感がありました。
お父さんのS・ネイガウスについても触れていて、両親が別れた後、ブーニンがネイガウスと会う機会があったのかはわかりませんが、敬愛の念は窺うことができました。
何だかちょっとほっとしたというか。私、親戚のおばちゃんじゃないんですけどね(笑)
「父は悲観主義者で、小さな心の精神的痛手が積み重なった結果、自分の殻に閉じこもるようになってしまった」というような表現で書かれていました。
確かに、私がレッスンを受けた際も、音楽に対して非常に真摯な印象を受けましたが、レッスン前にサインをしてくださったときも、レッスンが始まってからも、終始笑顔は見られませんでした。「ネイガウスは神経質な人だった」と言う人もいるようです。
ブーニンは、日本人の女性と結婚しているんですね。
数年前にブーニンが「徹子の部屋」に出たときに見ましたけど、日本の食事、特にタクアンが大好きで、いつも冷蔵庫に常備してあると言っていました。
とても知的で優しい紳士という印象でした。
2015年
1月
09日
金
きょうは所用で静岡駅を通過しました。
せっかく外出したので、家で着るセーターを買って帰ろうかとパルシェに立ち寄りました。
セーターを見ていると、売り場の店員さんが、「それはカピバラの毛が入っているから軽くて暖かいですよ」。
「えっ、カピバラ?」思わず目が点に。
「ああ、アルパカでした。間違えました」。
「そうよね、カピバラは温泉に入ってるほうよね」と私。
「そうですね。ちょっと毛が短かかったですね」と、おねえさん、私のツッコミに臆することなく堂々の返し。
笑いをこらえながら「おねえさんに座布団1枚!」と心の中でつぶやきながら売り場を後にしたのでした。
2015年
1月
04日
日
昨夜(きょうの早朝?)は寝る前に何げなくかけたBSで、「ベートーベン・ファイル」というドイツで制作されたドキュメンタリーをやっていました。
最初の10分間ぐらいは見逃したんですけど、どうも再放送だったような。
Ludwig Van Beethoven(1770~1827)
ベートーヴェンの遺品として発見された2通の手紙をもとにして制作されたようですね。
主に彼の耳の疾患が悪化していく経緯が音楽に与えた影響と、ダイム伯爵夫人ヨゼフィーネとの恋愛に重点を置いたつくりになっていました。
もっともベートーヴェンは惚れっぽいというか、以前に音楽史の講座を聴いていたときに、ベート―ヴェンが恋した女性の肖像画をずらずらと、10人ぐらいプリントしたものを見た記憶があります。貴族や上流階級の女性ばかり、それも夫のいる女性に夢中になる癖があるというか(笑)
ヨゼフィーネの姉と婚約していた時期もありましたね。
ベートーヴェンは生涯結婚していませんから、ほとんどは失恋や破綻に終わったんじゃないでしょうか。
ベートーヴェン自身は自分が出入りする上流階級の人たちと対等なつもりなんですけど、いくらフランス革命前後の激動の時代で階級意識が変化していたとはいえ、貴族から見れば彼は平民ですからね。
ハイドン以前ぐらいまでは、お抱えの音楽家は召使たちと同じテーブルで食事をしていたというくらいです。
耳が聴こえなくなっても傑作を生み出したというのは有名な話ですが、経緯を追っていくと、どんなに苦しんだかよく理解できる気がします。
彼が特注でつくらせたという補聴器も、大きくて使いにくそうだし、どれだけの効果があったのかと思います。
棒も使っていて、片方を口にくわえ、もう一方はピアノの上に当てて、ピアノから歯、顎、耳へ振動を伝えたそうですが、そんな状態でピアノが弾けたんでしょうか。
しかも、ほかにもいろんな病気を患っていたということですから。
もしベートーヴェンの耳が悪くならなかったら、間違いなく彼の音楽は違ったんじゃないかと思いますね。
病気になる前の初期の作品は、明るく軽やかで、モーツァルトを思わせるようなものもあります。
ベートーヴェンに限らず、私はよくショパンが肺結核を患わなかったらとか、ジョルジュ・サンドと出会わなかったらとか、モーツァルトが浪費家の妻を持ったために追われるように曲を書いていなかったらとか、シューマンが精神疾患に侵されなかったらとか、いろいろ考えます。
一般の人たちだって、あのときあの人と出会わなかったらとか、もっと早くあの人と出会っていればとか、あの一言がなければとか、もしもシリーズはいくらでもありますよね。
人生って不思議に満ちていますね(-_-)
2015年
1月
02日
金
きのう行った、三保にある東海大学の海洋科学博物館で撮った写真です。
くらげって神秘的ですね。
姿形も曖昧だし、動きもゆらゆらしていて。
くらげは何を考えているのかなと思うけど、もちろん何も考えていないんですね。
だから、くらげに生まれたのが幸せなのかどうかも、聞いてみたいけど答えてくれません。
mon petit-fils
もうすぐ2歳になります。
私が上げた「きんぎょがにげた」という絵本を毎日見ているのですが、生きて動いている魚を見たのは初めてなので、びっくりして目を丸くしていました。
「ほわ、ほわ」(「ほら、ほら」のつもり)と、大喜びです。
記憶には残らないかもしれないけど、写真には残して、また何年かしたら連れてこようと思います。
少し大きくなれば、いろんなことがもっとわかるようになって楽しめますよね。
2015年
1月
01日
木
明けましておめでとうございます。
2015年1月1日の清水港です。
この美しい空と海が、永遠に守られることを祈りました。
本当は富士山も撮りたかったのですが、あいにくきょうは肝心なところに雲がかかって、写すことができませんでした。
この写真、どこから撮ったかというと…
そうです、エスパルス・ドリームプラザの観覧車から。
フランス語の教室からも近いので、ずっと見かけていたのですが、乗ったのは初めてです。
風が強くて一番高いところでは結構揺れました。
大晦日から来ている長男の家族と、三保の海洋博物館に行った帰りに乗ってみました。
富士山が見えなかったのが、かえすがえすも残念です。
でも、本当にきれいで、新年にふさわしい、すがすがしい気持ちになりました。
海洋博物館の写真は、また後でアップしたいと思います。